翻訳文献集 1)パフォーマーと観客の関係

FROM: "The Splendours of Indian Dance"
narrated by MOHAN KHOKAR through the lens of GRUMEET THUKRAL
翻訳:丸橋広美


 インド舞踊の表現では、ダンサーの顔と手に注目が集まる。舞台全体の目的は、パフォーマーから観客へのコミュニケーションにある。そして、そのコミュニケーションの最も効果的な二つの手段が顔と手なのである。顔は感情を表し、手は言葉を展開する。声に出されず、ジェスチャーの不思議な力を通して表現されると、たちまち意味のあるシンボルとなる。高度に発展し、組織化されたハンド・ジェスチャーのシステムを通じて、名詞、動詞、形容詞、前置詞もすべて生き生きと説得力をもって伝えられる。これらの記号は、舞踊術語では、「ハスタ」または、あまり適切な言い方ではないが、より一般的には「ムドラー」として知られている。ムドラーは、通常、儀式や図像学の分野に属する。

 コミュニケーションは、インド舞踊の命である。古典舞踊にもそれはあてはまり、これを理解するには、何が古典舞踊を形成しているのかを知らなくてはならない。

 第一に、古典舞踊ほどの高度な芸術は、一朝一夕に完成されるものではなく、長い時間をかけて発展してきたものである。その技術は様式化され、具体化され、法典にされ、その表現は、芸術的効果を意識した特定の型に従う。感情は、すべての表現活動に付随するものであり、古典舞踊の本質である。しかし、それは本能的・衝動的に生じるものではなく、パフォーマーの表現する意志より生じ、理性によって制御される。

 古典舞踊は、フォークダンスと異なりダンサー自身の喜びではなく、他者の喜びのために踊られる。従って、古典舞踊ではパフォーマーと観客の両者が存在することを前提条件とし、両者の間に親密な関係が築かれたときに初めてダンスの役割が果たされたといわれる。また、フォークダンスのパフォーマーは、ただ型を見るだけでも技術を身につけることができるかもしれないが、古典舞踊は、正式な教育を受けてのみ成し遂げられるものである。最後に、古典舞踊は、時の試練に基づいており、グループより個人のインスピレーションと努力にかかっている。古典舞踊は、感情に訴えることに加え、踊り手と観客双方の知性を刺激する。

 しかし、以上のことは一般論である。それでは、インド古典舞踊の基本的な要素や不可欠な特色とは何なのであろうか。

 まずは、コミュニケーションである。コミュニケーションには「アビナヤ」と呼ばれるものが関係するが、これは大雑把に言えば、表現のことである。アビナヤには4種類あり、アーンギカ(胴体と手足)、そしてハスタ(ムドラー)が伝達手段としての役割を果 たす)、サーットヴィカ(顔だけでなく、全身で感情を表現する)、ヴァーチカ(パフォーマーによる歌やせりふ)、アーハールヤ(ある特定の役割などを表す衣装と飾り)である。

 インド古典舞踊のコミュニケーションでは、多くは観客の想像力に任せられている。それゆえ、インド古典舞踊では、暗示や象徴的表現が重大な役割を担う。同様に重要なのは、ダンサーが演じる役に感情を創造し、表現し、さらに観客の中に同一の感情を呼び起こすことである。以上のことは、インドの伝統においてラシカあるいは観客にもダンサーと同じように技術に精通していることが要求される理由を説明している。

 もう一つのインド舞踊の根本的な特質は、インド古典舞踊の技術は、直接的、あるいはそうでないにしても、広い意味で、古い権威ある理論書に基づいているということである。その中で最も古いものは、二千年も前に書かれた『ナーティヤ・シャーストラ』である。これらのテキストによると、インドの歴史的な芸術である舞踊と演劇は、主要な別 個の3つの顔、「ヌリッタ」・「ヌリティヤ」・「ナーティヤ」があるとみなされる。ヌリッタは、抽象的なダンスを意味し、動きやステップ、リズムやパターンはあるが、芸術的効果 以上のものを伝えることはない。疑う余地もないほど明白なダンスの喜びはあるが、そこにはテーマもストーリーも物語も存在しない。ムドラーですら単なる装飾である。空間や時間、移動、鼓動などの視覚的イメージには、何も定義するものがないのがヌリッタである。

 ヌリティヤにはテーマやストーリーがある。その目的を遂げるために、ふんだんにアビナヤ、特にアーンギカ(身体)ならびにサーットヴィカ(内的表現)に重点が置かれる。ヌリティヤは本来、表現するダンスで、思想やテーマを伝達する。それは、インド舞踊の特徴とされる顔による感情表現、手やその他の身体の各部を使ったボディー・ランゲージによって達成される。

 ナーティヤはもっと範囲が広く、ヌリッタやヌリティヤを含み、さらに、せりふや歌を通じて演劇的な要素が注入される。ヴァーチカ(声)やアーハールヤ(装飾)などのアビナヤは、ヌリッタやヌリティヤよりもナーティヤに関係がある。元来、すなわち『ナーティヤ・シャーストラ』が編纂された時代には、演劇やダンスドラマから独立したダンスは存在しなかったということを思い出すことが重要である。

 パーフォーマーはダンサーでもあり、俳優でもあることを余儀なくされた。

 ヌリティヤでは、歌が歌われる時には、行を追って歌詞を歌っておしまい、ということはない。仮に単に行を追って歌うとしたら、いくつかの曲の歌詞は4行から6行しかないので、2、3分で終わってしまうであろう。実際には、ダンサーは、歌詞の内容そのものではないが、その歌のテーマと密接な関係のある思想や考えに誘導することによって、詩の1行、1フレーズ、あるいは、たった一つの言葉を長々と詳しく粉飾する。このように詩を発展させるものは、サンチャーリ・バーヴァと呼ばれ、ヌリティヤの構成に重みを加え、舞台を維持するのに十分な効果を生む。

 「ターンダヴァ」と「ラースヤ」は、両方ともインド舞踊用語である。ターンダヴァは力強く、男性的でたくましい。ラースヤは、これとは全く対照的である。しかし、この区別はそれほど厳密ではない。何故なら、この二つの言葉は、ダンサーというよりも、ダンスに関する用語だからである。従って、矛盾しているように思われるかもしれないが、男性がラースヤに喜び、女性がターンダヴァを楽しむことを妨げるものはない。この2つのスタイルは、ターンダヴァの創始者はシヴァ神、そしてその妻パールヴァティーがラースヤをつくったという伝説が源になっている。

 ダンスがその動きを通じ表現するものには、日常生活の中で出会う動きに似ているために親しみを持てる特徴を有するものがある。また、それと反対に、様式化され奇抜にみえるものもある。

 前者は「ローカ・ダルミ」と言い、これは、「世の中に存在するものに従う」という意味である。後者は「ナーティヤ・ダルミ」と言い、ナーティヤ、すなわち、架空の要素が基礎になっている。明らかに、ローカ・ダルミは直接的で写実的なので、わかりやすい。一方、現実味に乏しいナーティヤ・ダルミは、その知識を授けられた者だけに向けられたものである。また、類似する別の区分に「マールギー」と「デーシー」が挙げられる。マールギーは、一般に認められた技術や様式の原理に基づき、一方、デーシーは、もっと自然な、または洗練されていない様式伝統のことである。よって、すべての古典舞踊はマールギー、そしてフォークダンスはデーシーに区分される。インド舞踊ばかりでなく、インドのすべての芸術において根本的で深遠な側面は、「ラサ」の観念である。ラサという言葉を正確に定義するのは難しいが、「美的体験」を意味する。それは純粋で豊かで、圧倒的で、瞬間的な体験で、ある存在の中に完全な形で顕れ、魂のエクスタシーに等しい。ラサは喜びが染みわたった意識から生じる。これは、並外れた強烈な体験であり、すべての人が到達するものではなく、本当に成熟し、繊細で、それを受け入れるにふさわしい者のみが体験できる美の刺激から流れ出る究極の満足や喜びを表す。

 ダンスまたはナーティヤにおいて、ラサは、はっきりとした手順を通じて認識される。その触媒となるのがバーヴァである。そしてバーヴァはムードや感情、情緒を単独または集合的に意味する。ラサを呼び起こされるのは、異なるカテゴリーのバーヴァが個別または調和して作用した時である。バーヴァは心の状態や情緒を伝達する。それらは、永続的であり、一時的でもある。支配的であり補助的でもある。自発的であり無意識でもある。重要なことは、異なるバーヴァがラサ体験という大きな感情のほとばしりを発するという一つの目的のために協力するということである。愛、恐れ、驚嘆など人々に共通する基本的な感情を表す中心となるバーヴァが存在する。それを中心に第二、第三のバーヴァがあり、それには、笑いや慄き、発汗、不安、羞恥心などがあり、その目的は、中心となるバーヴァを膨らませることである。パフォーマーの存在の内に完全な体験が生じ、理想的な観客であれば、首尾一貫して感情移入ができる。ラサのひらめきは意外な体験を分かち合うことである。理論書には9つの特定の基本的感情に結びついた主要なラサが描かれている。それらは、シュリンガーラ(愛)、ハースヤ(滑稽)、カルナ(悲)、ラウドラ(憤怒)、ヴィーラ(勇猛)、バヤーナカ(恐怖)、ビーバッサ(嫌悪)、アドブタ(驚嘆)、シャーンタ(平静)である。しかしながら、付随する基本的な感情とは関係なく、ラサは、どの場合でも同じで、言葉では表現できない内面の歓喜や穏やかさを沸き立たせるものである。

 興味深いことに、インド舞踊の規律を考案した人々は、理想主義であり、完璧主義である。彼らは偶然に委ねられるものがないように注意を払い、それを完全に成し遂げた。

 そして彼らは、理想的なダンサーは、良いプロポーションを持ち、顔は美しく、輝く瞳を持ち、魅力のある歯で、堅く引き締まった胸、ほっそりしたウエスト、豊かなヒップ、頑丈な太股、肌の色は色白か褐色、そして性格はチャーミングであり、生まれながらにして自信に満ち、敏活で忍耐力があり、記憶力が優れている者であると定義した。踊るときには、完璧に自分の踊りをコントロールし、いつ始まり、いつ終わるかを把握し、歌や伴奏にともないリラックスして踊るべきである。一方、ダンサーが持ってはいけない特質も列挙されている。均整のとれていない姿や切れ味の乏しい目、だらしのない胸、乏しい頭髪などは望まれない。男性ダンサーは堂々として高貴で、芸術書をよく読み、歌や楽器、ダンスの知識に精通し、自分に自信があり、機転が利かなくてはならない。

 指導者は、ダンス、ヴォーカル、楽器、リズムのテクニックを十分に身につけているべきだ。そして、想像力に富み、記憶力にすぐれ、知的で創造的才能を持っていなくてはならない。それにもまして、生徒をエキスパートにする才能がなければならない。生徒もまた、頭の回転が早く、一途で、そして忍耐力があり、洗練されていて向上心があるべきだ。

 どんなタイプの人々が理想的な観客であろうか? それは、先入観に捕われず、冷静で純粋で想像力があり、共感できる人々である。そのような人々がステージで起こっていることを読み取り、即座に反応する。怒りを見て腹を立て、ぞっとするようなものを見て恐れ、悲しみを見て嘆き、喜びには歓喜する。観客はそれぞれの好みがあり、彼らを楽しませるために、その好みが考慮される。例えば、若者は愛のテーマが大好きだが、年寄りは神や美徳の物語が好きであり、学識のある人々は、教訓的なテーマを欲する。また、俗人は富裕についてのテーマを好み、勇敢な人は戦いのテーマを歓迎したりもする。世俗的な欲求を放棄する人は救済のようなテーマに引かれる。女性や子供は面 白いものに飛びつく。

 観客の代表になる人がいるべきである。その人は財力があり、賢明で分別があり、著名で才能豊かで、啓発され、威厳のある存在であり、先入観や嫉妬心から自由であり、礼儀やしきたり、音楽や他の芸術に精通しており、情緒やその表現を熟知している。彼は舞台に向かってリラックスして座り、大臣や詩人などの重要な観客は、彼の近くに座るべきである。

 いつパフォーマンスを催すべきか? 朝、午後、夕方、明け方の4つの時間帯が好ましい。美徳をテーマにする上演は朝に行う。音楽が加わり、勇敢な物語ならば、午後が適切な時間であろう。愛を主たる情調とし、優雅なスタイルであれば、夕方がベストである。偉大なヒーローや深い悲哀がテーマなら、早い時間が理想的である。日中や真夜中、夜の祈りと夕食の時間にパフォーマンスを行うことは常に避けるべきである。ダンス・パフォーマンスは、祈りとともに始めなくてはならない。もしこれを怠ると、そのダンスに関わった者は、子供が授からないか下等な生き物に再生するであろう。

 過去のインドの舞踊芸術は、踊る側からもそれを求める人々からも非常に重大なものと捕らえられていたことが以上のことからもはっきりするであろう。

 もともとは、国全体に共通の唯一の伝統が存在していたことは、明らかである。。地域ごとのバリエーションは、中世になって現われはじめた。年代が進むにつれて、より多くのスタイルが形づくられた結果 、今ではインド古典舞踊には20以上のスタイルが存在する。インド舞踊のテクニックは、年月を経て大なり小なりの変化を続けた。従って、ここに書かれたものを読む際には、我々が述べてきたことは、現在のインド舞踊のみにあてはまるものではなく、その絶頂にあった時のインド舞踊にも言えるものであることを心にとどめておく必要がある。

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